パウエル・ハットの物語 #073

人間には誰でも憧れというものがあります。

もちろん私にも憧れがあります。
いや、「あった」と言うべきでしょうか。

1960年頃の話なんですが。
私の輝かしい憧れは、「ポケミス」だったのです。
「ポケミス」は、愛称。
正しくは、「ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブック」。
それは新書版くらいの大きさで、アブストラクト調の絵が表紙になっていました。
あの「ポケミス」に訳もなくトリコになってしまったのです。

「ポケミス」を読むか読まないかは二の次で、持つことがおしゃれだと思ったのです。
「なんてハイカラな本の装丁なんだろう」と、惚れてしまったのです。
ただ、「ポケミス」を鞄の中に入れておくだけで、心がウキウキしたものであります。

今、すべて過去形で話していますが、現在ももちろん『ポケミス」は存在しています。
今日の「ポケミス」に目を通すこともあります。

でも、あの少年時代の片想いのトキメキとはまた別の感情なのですが。

この間、本棚の奥から忘れていた「ポケミス」が一冊、出てきました。

それは懐かしい『ウインター殺人事件』だったのです。
『ウインター殺人事件』は、S・S・ヴァン・ダインが、1939年に発表した最後の「ファイロ・ヴァンス物」。
ヴァン・ダインは十二冊の「ファイロ・ヴァン物」を書いていて、『ウインター殺人事件』が最後の物語。

いや、そんなことよりも、実はポケミスの、『ウインター殺人事件』の裏表紙が面白いのです。

「ファイロ・ヴァンス物」は何度か映画化もされていて、その主役、ヴァンス探偵を演じたのが、ウイリアム・パウエル。
その映画の一場面が裏表紙になっているではありませんか。

当然のことですが、ヴァンス探偵役のウイリアム・パウエルは、典型的三十年代の着こなしになっています。
手には、ミディアム・グレイのホンブルグ。

なんとも、美しい。
なんとも、素晴らしい。

特別に、「パウエル・ハット」と名づけたいくらいのものです。
ブリムはあくまでも強く巻き上がって、より立体的な表情をしています。

今こそ、1930年代風の、「パウエル・ハット」を被ってみたいものです。