経木帽子の伝説 #091

江戸時代に珈琲を飲んだひとりに、渋沢栄一がいます。

渋沢栄一は慶応三年に、巴里に赴いています。
徳川民部卿のお供として。
徳川民部卿は、徳川慶喜の弟君。

1867年、巴里万博があって、これに日本を代表として訪問したからです。
江戸の頃ですから、もちろん船でヨーロッパに。

この船中で、珈琲が出た。

「食後カッフェーといふ豆を煎じたる湯を出す。
砂糖、牛乳を和して、之を飲む。すこぶる胸中さわやかにす」

『日記』には、そのように書いています。

巴里滞在中の民部卿には、フランス人の教師がいた。
馬術のヴィレット大佐。
ヴィレット大佐と渋沢栄一とで、剣術の話になった。
西洋の剣術と、日本の剣道と、どちらが強いか。

議論沸騰して、たがいに「真剣勝負を!」ということに。
渋沢栄一は、北辰一刀流の達人。
道具を取りに行ったヴィレット大佐、空手で帰ってきて言うことに。

「おたがい大切な皇太子をお預かりいたす身の上。どちらに怪我があっても詰まりません…………」。

このひと言で真剣勝負はやめることになったという。
渋沢栄一は晩年、ヴィレット大佐をいつも褒めたそうです。

渋沢栄一の第四男が、渋沢秀雄。
随筆家であります。
渋沢秀雄が東大在学中の話。大正五年頃のこと。
夏はたいてい伊豆の土肥へ、避暑に。
その頃の様子をこんな風に書いています。

「経木の帽子をかぶり、宿屋の浴衣を着た私が青い海を背景として…………」。

渋沢秀雄がモデルになって、画家の和田英作が絵を描いたそうです。
これは二十五号の絵として完成されて、展覧会にも出されたという。

それはともかく大正の時代には、「経木の帽子」があったことが分かるでしょう。

経木は木の肌を薄く削って、細い板状にしたもの。
今でも刺身の容器になったりも。

さてそこで。
「経木の帽子」を復活させようではありませんか。

きっと木の香りがして、素晴らしい帽子になると思います。