チュイヨ・ド・ボエルの伝説 #116

チュイヨ・ド・ボエルは、シルク・ハットのこと。
トップ・ハットのことです。
十九世紀中頃の、フランスで用いられた言葉。
というよりも、純然たる俗語なのですが。
つまりは、スラング。
ただしふつうのフランス語の辞典には、出ていません。

「ぴか靴に煙突といういでたち。娘につきそって、彼は幸福だった。」

ドニ・プロ著『崇高なる者』に、そのように書かれています。

『崇高なる者』は、1870年の巴里で出版されています。
文中の「ぴか靴」には、「リュイザン」のルビがふってあります。
そして「煙突」には、「チュイヨ・ド・ボエル」のルビが。

「リュイザン」は、エナメル・シューズを指す、俗語。
「チュイヨ・ド・ボエル」はシルク・ハットを意味するスラング。

著者の、ドニ・プロは工場主であった人物。
と同時に、底辺の労働者の味方でもあった人物。
そのドニ・プロが、徹底して当時の労働者の生活を描いたのが、『崇高なる者』なのです。

文中の場面は、労働者が、娘の聖体拝領式に、同行する様子。
ふだんは菜っ葉服に破れた作業帽であるのに、この日ばかりは思い切りのドレスアップをする場面なのです。

「チュイヨ・ド・ボエル」はあまりにも特殊な言葉であるかも知れません。
今日のフランス人でもあまり馴染みがないでしょう。
それを私たちが憶えておく必要もない。

でも、いざという時にはそれなりのドレスアップをする。
これは万物の霊長である人間にとっては当然のことです。
犬でも猿でもない、崇高なる人間なのですから。

いざという時の、特別の帽子をひとつくらい用意しておきたいものですね。